たとえば、こう問題を立ててみよう。

 

 生命体の生存目的が「個体の維持と種の保存」だと答えていた時代と、「DNAの継承」だと答える時代とでは、教育はどのように変わってくるのか。いや、変わるべきなのか。

 

 社会の必要に応え、その発展に寄与できる有益・有能な人間をどれだけ多く生み出せるか。そのなかで個々人の能力や努力を評価し、正当に酬いるシステムをどう構築するか。―これがわれわれの育ってきた時代、もしこう言ってよければ明治近代以来、綿々と受け継がれてきた観念だ。

 

 進化発展した生命観・人間観に立つと、見えてくる光景も変わってくる。

 

 人の生涯にわたるトータルな発達保障と環境変化に適応する諸能力の開発。

 

 これがいま求められている教育目標ではないか。私はそう思う。

 

 教育によって思い通りの人間を造りだすことは不可能であるし、「思い通り」のその目標自体、一世代の成功体験や失敗体験に擬して設定されているケースがほとんどだろう。その経験則にもとづいて後の世代に訓戒を施し、こうすれば成功し、こうすれば失敗すると説くというのが、われわれが通常交わしている教育談義だ。

 

 しかし人の一生は、人類の一生に似てもっと奥深く、未知のものにあふれ、新しい環境に適応するすべを求めて体験を重ね、自分を発見し、何ごとかを実現していこうとする不断の旅路のようなもの。そしてその旅路は、母胎で新しい生命が宿ったときから始まっており、そこに書き込まれた遺伝子情報に基づき、それを複製すべく生涯の歩みを踏み出すのだ。

 

 これまでの教育システムは、一定の年限で輪切りされた評価を社会に提供することはできても、人の生涯にわたるトータルな発達をモニターすることはしていないし、したがってそれぞれの時期に、それぞれの人に必要とされる能力開発の機会も十全には提供できていない。

 

 病気や障害も異常性の発露ではなく、環境適応のためのその人固有の身体反応だと分かってくれば、実は多かれ少なかれすべての人間に同様の契機が内在していることが分かってくるし、そうすれば、教育・学習のプログラムも多彩に広がっていかざるをえない。

 

可能性にチャレンジする議論を交わしたい。

 

―この項、もう少し続けさせてください。

 

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――1度は私も飛んでみたい!