ちょっとややこしい話になってきたかもしれないが、整理してみたい。

 

 たとえば医療の世界では、遺伝子レベルでその人の体質や病質が把握できれば、治療や予防は大きく前進するだろうし、そのデータは、いつ、どこの医療機関にかかろうと、一貫した体系的な治療を受けるための土台となるだろう。

 

 一人として同じものはなく、1億人いれば1億人の個性がある。

 

 人間の社会的成長や身体的・知的発達だって同じはず。

 

 もちろん人間としての普遍的共通項はあるし、一定の共通ルールや共通プログラムを必要とするので、ある種の標準モデルを設定する必要も避けがたい。

 

 けれど思うに、「標準」というのは、標準そのものなんていうのは現存しないからこそ標準たりうるのではないか。

 

 下らない思い出話をさせていただきたい。

 

 私の中学時代は、まだ学校給食がなく、生徒は弁当をもってくることになっていたが、パンを買ってもよかった。近くのパン屋さんに注文するのだが、どうやるかというと、朝登校とともに、パンを希望する生徒は、用意された袋に注文を書いて出すのである。

 

 袋にはあらかじめハムパンとかジャムパンとか印刷されていて、そこに個数を記入する。印刷にないものを頼みたいときは空白の欄があるので、そこに書き入れる。

 

 今日のタイトルからピンとこられる方もおられよう。いたずら盛りの中学生のこと、ふざけ心でデカパンとかフライパンとか書いて、何がくるか試してみようということをやる。しかし相手も心得たもので、何年も同じ仕事をしているパン屋さんである。中学生なんて同じことを考えるようで、昼には何食わぬ風にその注文に対応したパンが入ってくる。ほんとにデカいパンとか、フライをはさんだパンとか。

 

 さぁ、もっと相手を困らせるものはないかというので、われわれが究極に到達したのが、ただ「パン」とだけ書いて出す注文。

 

 それでも何かのパンが入ってきたから、何とも他愛のないいたずらで終わったわけだが、では実際にパン屋に行って、ただ「パンをくれ」、「パンならなんでもいいという意味じゃなく、パンだけでしかないパンをくれ」と注文したらどうだろうか。立派な嫌がらせだろう。

 

 時計屋にいって時計を、靴屋にいって靴を、と注文しても同じこと。われわれが手にできるのは具体的に個体識別できる何かの時計しかない。

 

 普遍的モデルとか標準値とかは、実在するものではなく、多種多様な個性を一定の枠に収めてみただけのものなのだが、人の意識というのも面白いもので、実際の多様な個性を標準にもとづいて評価して分かった気になりたがる。

 

 標準に比べてあなたは下痢体質です、高血圧気味です、とだけ言われても困ってしまうので、では私にあった治療法は何でしょうかと、問い返すだろう。

 

 君は人より算数が遅れているね、分数もよく分かっていないね、とだけ言われても困り、では私はなぜ分からないのでしょうか、ということに答えてもらってはじめて次の歩を踏み出せるだろう。

 

〔教育システムにかんする話題、いったんまとめようとしています。もう1回分くらい〕

 

大島ダム満水

 珍しい写真が送られてきました。

 

 豊川総合用水の水がめの一つ。鳳来地区の大島ダム(朝霧湖)。

 最近の雨でほぼ満水状態に。

 

 

越流

 

 

貯まった水がオーバーフローします。

ダムの専門用語では、これを自然越流(式)と言うそうです。

6月4日の撮影です。

 

越流2

 

 

 

遠くから。

この光景はそうそう見られるものではありません。

 

数年に1度あるかないか。今年の水供給はどうでしょうか。