私はいま市長という職務に就いて、市政運営の責任を負っているわけだが、では、私に与えられた経営資源は何か。

 

 第1は、市の「歳入」である財政資金。

 第2は、行政組織とそれを担っている職員、つまり人材。

 第3は、公共施設や市有の物品、資産類。

 第4は、市のもつ情報ならびにそれを伝える媒体。 

 

 大きく分ければこんなところだろうか。世間的にいえば、「ヒト、モノ、カネ、ジョウホウ」だ。この点は民間経営と変わらぬが、これらがあって初めて市長の職務を果たすことができる。

 

 民間と違うところは、私がこんな責任と権限を負っているのも、ただひとえに私が選挙によって選ばれた市民代表であるという、ただ一つの理由にもとづいていることだ。私は市民の政治代表として執行機関の長におり、それに対して同じく市民代表たる議会の審議や議決や監査を経て、市の全体意思が決定される。

 

 それが市民全体の意思や要求とかけ離れた場合には、住民による直接請求や市長、議会に対する解職請求が権利として保証されている。そんな事態に立ち入らない段階でも、日常的に地域、団体、個人からいろいろな経路で、さまざまな要望、提案が持ち込まれる。

 

 このなかで議論され、争われ、あるいは調整されるもろもろの課題が、つまりは市政運営にあたっての政治課題と呼ばれるものになる。そこにあるのは、市のもっているさまざまな公共資源を、どこに、どう配分するのかをめぐる利害の差異だ。

 

 全員の利害が一致しているか、あるいは公共資源が全員の要求を満たしてもなお有り余るほど潤沢であれば、政治の争いは起こらない。

 

 が、そんなことはありえず、利害の相克と資源の有限性は人間社会の常なので、政治機能がどうしても必要になる。

 

 議論し、調整し、決定する。それによって社会の方向付けをし、制度・仕組みをつくり、社会のある部分を推進し、ある部分を抑制する。

 

 政治が行っているのは、こんなところで、実に、こんなところ以上ではない。

 

 だから政治過程には、必ず不満が生まれ、不満が残る。

 

 あの要求は満たされず、この要求は事業化される。あの行為は禁止され、この行為は奨励される。

 満たされてもいいはずのものが満たされないとの思い。あそこに税を投じるよりも、こちらに投じろとの評価。もっとうまい方法でできるのではないかとの考え。

 

 こういうものが絶えず生じてくるからで、それはそれで、次の政治過程での重要なファクターになる。

 

 昨日のブログ(9月29日『とかくこの世は・・・』)で書いた「政治感情」とは、ここで露わになってくるものといってよい。

 

 


 

新城まちなか博物館

「出沢(すざわ)やままゆ養蚕所」

やままゆ

 

養蚕所